読書設定
組み方向
配色
文字サイズ
100%
行間
1.95
 

第1章 · 最後の一合・イギリス編 〜ロンドンの食卓〜 · 約6分

豊穣の逆説

ヒースロー空港からカムデンの賃貸住宅まで、篠宮誠一は車窓から見える風景に目を奪われていた。十一月のロンドンは霧に包まれ、街路樹の枯れ葉が石畳に散らばっている。六ヶ月前の青川市での「最後の一合」の体験が、まるで遠い夢のように感じられた。

「おじいちゃん、あれ見て」美咲が興奮気味に窓を指差した。「スーパーマーケットがこんなにたくさんある」

タクシーがハイストリートを走る間、篠宮家の四人—誠一、千代、健太郎、美咲—は次々と現れる巨大な食品店に圧倒されていた。青川市では三週間以上米が手に入らなかった彼らにとって、この豊富さは現実離れして見えた。

「きっと、どの店にも米があるんだろうね」千代が静かにつぶやいた。その声には、まだ信じられないという響きが含まれていた。

健太郎は国際会議のスケジュールが書かれた書類を見ながら言った。「『持続可能な食システム』について議論するには、確かに適切な環境だ。ここには学ぶべきことがたくさんありそうだ」

タクシーが目的地に到着すると、四人は三階建ての煉瓦造りの建物の前に立った。典型的なロンドンの住宅で、小さな前庭には秋の花が植えられている。

「ここが三週間の滞在先か」誠一は建物を見上げた。「思っていたより落ち着いた環境だな」

荷物を運び込み、それぞれの部屋に落ち着くと、千代が最初に提案した。「せっかくだから、近くのスーパーマーケットを見に行きましょう。夕食の材料も必要だし」

歩いて五分の距離にあったスーパーマーケットは、篠宮家が想像していたものをはるかに超えていた。自動ドアが開くと、色とりどりの野菜や果物が山積みされた売り場が広がっていた。

「これは…」誠一は言葉を失った。「圧倒的だな」

美咲はスマートフォンで店内の様子を撮影しながら歩いていた。「青川市のスーパーと比べて、何もかもが大きい。野菜の種類も、パンの種類も」

千代は元栄養士の目で食材を吟味していた。「新鮮な野菜がこんなにたくさん。でも、量が多すぎないかしら」

彼女が指摘したのは正しかった。どの商品も大容量パックで販売されており、一家族が消費するには多すぎる量だった。

健太郎は米の売り場で立ち止まった。「見てください。少なくとも二十種類はある。バスマティ、ジャスミン、日本米まで」

「日本米!」美咲が駆け寄った。「本当だ、『Sushi Rice』って書いてある」

誠一は一袋の日本米を手に取り、その重さを確かめた。「五キロ入りが普通に売られている。青川市では、一合でも貴重だったのに」

しかし、売り場をもう少し注意深く見回すと、気になることに気づいた。野菜の中には、わずかに傷んだ部分があるだけで「REDUCED」のラベルが貼られた商品がある。パンは製造から二日経っただけで半額になっている。

「賞味期限に対して、随分と厳しいのね」千代が観察した。「まだ十分食べられそうなのに」

レジで会計を済ませ、大きなエコバッグに買い物を詰め込みながら、家族は改めてこの豊富さと厳格さの矛盾について考えていた。

賃貸住宅に戻る途中、千代が足を止めた。「あら、あれは何かしら」

建物の裏手にある共用のゴミ捨て場から、かすかにパンの香りが漂っていた。好奇心に駆られた千代が近づいてみると、透明な袋の中に大量の食品が捨てられているのが見えた。

「これは…まだ食べられそうなのに」千代は驚いた。

美咲も近づいた。「本当だ。パンも、野菜も、お菓子も。賞味期限を見ると、まだ一日は余裕がある」

誠一は眉をひそめた。「興味深い現象だ。豊富さの裏側には、必然的に廃棄が伴うということか」

健太郎は国際会議の資料を思い出していた。「フードロスについてのセッションがあったな。理論的には理解していたが、実際に目にするとインパクトが違う」

四人は静かに建物の中に入った。エレベーターの中で、誰もが同じことを考えていた。青川市での経験—最後の一合の米一粒一粒を大切にしたこと—と、今目の当たりにした現実とのギャップについて。

三階の部屋に戻ると、誠一は窓辺の椅子に座り、持参した研究ノートを開いた。

「食の豊富さと廃棄の関係について、理論的には様々な研究があるが」彼は独り言のようにつぶやいた。「実際に体験すると、理論だけでは捉えきれない複雑さがある」

千代はキッチンで夕食の準備を始めていた。買ってきた食材を見ながら、彼女は青川市での日々を思い出していた。限られた食材で栄養バランスを考えた食事を作っていた頃のことを。

「お母さん」健太郎が声をかけた。「今日見たことについて、どう思いますか?」

千代は手を止め、息子を振り返った。「豊かさというのは、複雑なものね。たくさんあることが必ずしも良いことだけではないのかもしれない」

美咲はソファに座り、今日撮影した写真を見返していた。スーパーマーケットの豊富な食材の写真と、ゴミ捨て場の廃棄食品の写真。その対比が、彼女にも考えさせることが多かった。

「SNSに投稿しようと思ったけど」美咲は言った。「何て説明すればいいか分からない。青川市の友達に、この状況をどう伝えればいいんだろう」

誠一は孫娘の迷いを理解した。「簡単には答えられない問題だ。文化的背景、経済システム、価値観の違いが複雑に絡み合っている」

その時、隣の部屋から英語の声が聞こえてきた。女性の声で、誰かと電話をしているようだった。

「…フードバンクには毎日大量の寄付が来るけれど、処理が追いつかない状況で…」

健太郎は英語を理解し、興味深そうに耳を傾けた。「隣人は食品関連のボランティアをしているようですね」

「今度、挨拶してみましょうか」千代が提案した。「この土地のことを教えてもらえるかもしれないし」

夕食は、買ってきた食材で作った簡素な日本風の食事だった。しかし、食卓を囲みながら、四人は今日一日で感じた違和感について話し合った。

「青川市では一粒の米も無駄にできなかった」美咲が箸を置きながら言った。「でも、ここでは一斤のパンが簡単に捨てられている」

「どちらが正しいということではないだろう」誠一は慎重に言った。「ただ、異なるシステムが生み出す、異なる価値観と行動パターンがある」

健太郎は明日から始まる国際会議について考えていた。「会議では、世界的な食糧問題について議論する予定だが、ローカルなフードロス問題も同じくらい重要な課題だということが分かった」

千代は食器を片付けながら言った。「明日、隣人に挨拶してみるわ。どんな活動をしているのか聞いてみたい」

窓の外では、ロンドンの夜が更けていた。街灯が照らす通りには、まだ多くの人が歩いており、レストランやパブからは暖かい光が漏れている。食に不自由しない都市の、豊かで複雑な夜の風景だった。

誠一は再び研究ノートを開き、今日の経験を記録し始めた。「豊穣の逆説」という言葉が頭に浮かんだ。豊かさがもたらす新たな課題について、彼は考え続けた。

美咲は自分の部屋で、青川市の友達にメッセージを送っていた。「今日、すごく複雑な気持ちになった。ロンドンには食べ物がたくさんあるけど、それが良いことなのか分からない。明日からもっと観察してみる」

送信ボタンを押してから、彼女は窓の外を見た。この都市での三週間で、きっと多くのことを学ぶだろう。そして、それは青川市での経験とはまた違った形で、彼女の食への理解を深めることになるはずだった。

篠宮家のロンドン滞在は、こうして始まった。豊穣の中で新たな課題と向き合う、三週間の旅路の第一歩だった。