残された一合
青川市では、もう三週間以上、米が店頭から消えていた。かつて「東の米どころ」と呼ばれたこの地域で、白いツヤのある米粒を見ない日々が続くことは、誰も想像していなかったのだろう。それでも現実は、想像の埒外から容赦なく訪れていた。
篠宮誠一は居間の窓から外を眺め、深いため息をついた。七十歳を過ぎた彼の痩せた背中には、食糧倫理学の教授として過ごした長い年月の重みが宿っているようだった。眼鏡の奥の目は、今はもう存在しない研究室の本棚を見るように、遠くを見つめていた。
「誠一、お茶が入ったわよ」
妻の千代の声に、誠一は我に返った。千代は七十に近いが、その動きは相変わらず機敏で、栄養士として働いていた頃の面影を残していた。彼女が差し出す湯呑みから立ち上る湯気が、一瞬、炊きたての米の香りを思い出させた。
「ありがとう」誠一は湯呑みを受け取りながら言った。「今朝の新聞には何か進展があったか?」
千代は小さく首を振った。「農協からの配給の見通しも立っていないそうよ。哲也も大変でしょうね」
次男の哲也は地元の農業協同組合で働いていた。この未曾有の米不足の中、彼はおそらく連日の苦情と問い合わせに追われているはずだった。
「理論的には、このような供給の断絶は—」誠一が言いかけたとき、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
美咲の声だった。制服姿の高校生の孫娘が、スマートフォンを片手に居間に入ってきた。彼女の顔には疲れが見えた。
「美咲、学校はどうだった?」千代が尋ねる。
「いつも通り」美咲は肩をすくめた。「でも今日は授業で食糧危機について議論したよ。先生は『歴史的危機』って言ってたけど」彼女は祖父に視線を向けた。「おじいちゃんが昔から予言してたことが現実になってるって言ってる子もいたよ」
誠一は眉をひそめた。「私の研究は『予言』ではない。科学的分析だ。資源の枯渇と分配システムの脆弱性は、理論的にも実証的にも—」
「お父さん、また講義を始めるの?」
新しい声が加わった。長男の健太郎が訪れていた。四十代前半の彼は、疲れきった表情をしていたが、国際的な食糧支援NGOで働く情熱は目に宿っていた。
「健太郎、久しぶりね」千代が立ち上がる。「お茶を入れるわ」
「ありがとう、母さん」健太郎は頷き、父親に向き直った。「父さん、NGOでの最新の状況を報告しに来たんだ。世界的な穀物備蓄は危機的レベルに達している。特にアジア地域の—」
「千代お母さん!」
今度は玄関から聞こえた声は、次男の哲也の妻、理恵のものだった。彼女もまた疲れた様子で、地域の食支援ボランティアとしての活動から戻ってきたのだろう。
「大変なことになってるわ」理恵は息を切らしながら言った。「市の東側の地区では、もう一週間以上、まともな食事ができてない家庭があるって。特に小さな子どものいる家庭が—」
「みんな、ちょっと落ち着いて」千代が静かに、しかし芯のある声で言った。彼女はキッチンから戻りながら、何か決心したかのような表情を浮かべていた。「実は、見せたいものがあるの」
居間に集まった家族全員が、千代の方を向いた。彼女は小さな木製の米びつを手に持っていた。古いもので、もう何年も使われていなかった。
「これは…」誠一が言いかけた。
千代はゆっくりと蓋を開けた。中には、わずかばかりの白い米粒が入っていた。
「物置を整理していたら見つけたの。忘れていた古い米びつの底に残っていたわ」千代は静かに説明した。「およそ一合ぐらいかしら」
部屋は静寂に包まれた。全員の目が、その小さな米びつに釘付けになっていた。一合の米—今や青川市で最も希少な宝物かもしれないものが、そこにあった。
「それで、どうするつもりなんだ?」誠一が尋ねた。その声には、長年培ってきた食糧倫理学者としての緊張感が滲んでいた。
千代は家族全員を見回した後、「それを、みんなで決めましょう」と言った。
その瞬間、玄関のドアがまた開き、次男の哲也が帰宅した。彼の表情は暗く、疲労が刻まれていた。
「哲也、お帰り」理恵が夫に近づく。「大丈夫?」
哲也は首を振った。「農協は完全に機能不全だ。上からの指示も混乱してるし、市民からの問い合わせは殺到してる。もう…」彼は言葉を切り、居間の雰囲気の変化に気づいた。「何かあったのか?」
健太郎が弟に説明した。「母さんが一合の米を見つけたんだ」
哲也の目が大きく開いた。「一合?本当に?」
その声には、農協職員として米不足の現実を痛感している者の驚きが含まれていた。
「父さん」健太郎が誠一に向き直った。「これは家族会議の時間だと思います。この一合の米をどうするか、みんなで話し合いましょう」
誠一はゆっくりと立ち上がり、教壇に立つ時のような態度で言った。「そうだな。正式な家族会議を開こう。この一合の米の使用について、各自の意見を述べてもらう」
彼は眼鏡を直し、まるで論文の序論を始めるかのように続けた。「まず、前提として考えるべきは、この米一合が持つ価値の多面性だ。単なる栄養源としてだけでなく、象徴的価値、将来的価値、そして社会的価値を含めて議論すべきだろう」
美咲は目を転がした。「おじいちゃん、また難しい話になるの?」
千代は孫娘の肩に手を置き、微笑んだ。「あなたのおじいちゃんは、食べ物の話になると教授に戻るのよ」
誠一は咳払いをした。「いや、これは重要な問題だ。換言すれば、我々は今、分配の正義という哲学的課題と、生存という現実的課題の交差点に立っているのだ」
「交差点に立っている暇はないよ、父さん」哲也が疲れた声で言った。「現実は待ってくれない」
健太郎は頷いた。「そうだね。でも父さんの言う通り、これは単なる食料以上の意味を持つ。私たちの決断が、家族としての価値観を反映することになる」
理恵は静かに提案した。「まずは全員の意見を聞いてみましょう。思いつくままに、この一合をどうしたいか言ってみては?」
誠一が椅子に深く座り直し、眼鏡の奥の鋭い目で家族全員を見渡した。「よし。では私から始めよう。この一合の米について、私の考えを述べる」
そして彼は、食糧倫理学者としての長い経歴の集大成とも言える講義を始めた。家族全員が、それぞれの思いを胸に、その言葉に耳を傾けた。
青川市の静かな住宅街で、篠宮家の居間に残された最後の一合の米をめぐる議論が、始まったのだった。