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第4章 · 最後の一合 · 約8分

孫娘の視点

美咲は学校のオンライン授業で「持続可能な食システム」について学んでいた。画面の中の先生が「現在の危機は、実は機会でもある」と言ったとき、彼女は祖父の書斎にある本の一節を思い出した。

「危機とは、古い価値観が崩壊し、新しい可能性が開かれる時である」

篠宮誠一の著書の一節だ。かつては難解で退屈だと思っていた祖父の言葉が、今では不思議と心に響くようになっていた。

オンライン授業が終わると、美咲はノートパソコンを閉じ、窓の外を見た。青川市の町並みは変わらない風景なのに、そこに流れる空気は明らかに変化していた。コンビニの前に並ぶ人々、道端で話し込む近所の主婦たち、いつもより速く自転車を漕ぐ郵便配達員。誰もが少し急いでいるように見えた。

「美咲、お昼ごはんよ」

祖母の千代の声が階下から聞こえてきた。美咲は部屋を出て、階段を降りていった。

ダイニングテーブルには、質素な食事が並んでいた。わずかな野菜のおひたし、昆布の佃煮、そして少量の味噌汁。主食の米はなく、代わりに薄く切ったじゃがいもを焼いたものがあった。

「ごめんね、こんな質素で」千代は孫娘に微笑みかけた。「でも、栄養バランスは考えたわよ」

「大丈夫だよ、おばあちゃん」美咲は席に着いた。「学校の友達の中には、もっと大変な人もいるし」

祖母と孫は静かに食事を始めた。千代は元栄養士として、限られた食材でも栄養価の高い食事を作る技術を持っていた。美咲は祖母の知恵と技術をいつも尊敬していた。

「おじいちゃんは?」美咲が尋ねた。

「書斎で考え事をしているわ」千代は穏やかに答えた。「昨日からずっとね」

美咲はもう一口、おひたしを食べた。「おじいちゃんの本、少し読んでみたんだ」

千代は少し驚いた様子で孫娘を見た。「まあ、本当?難しくない?」

「うん、難しいよ」美咲は正直に答えた。「でも、おじいちゃんが何を考えていたのか知りたくて。特に今、こんな状況だから」

千代は優しく微笑んだ。「あなたのおじいちゃんは、ずっと食べ物について考えてきた人なのよ。単なる学問としてではなく、人間の尊厳に関わることとして」

美咲は祖母の言葉を聞きながら、じゃがいものカリカリとした食感を味わった。「でも、おじいちゃんの理論と、今の現実って、どうつながってるの?」

この質問は、前日の家族会議でも美咲が投げかけたものだった。誠一は明確に答えられなかった。

千代はしばらく考えてから、ゆっくりと答えた。「理論と現実は、いつも完璧につながるわけではないわ。でも、理論は私たちが現実を理解するためのレンズのようなもの。そして時には、現実が理論を教えることもある」

「レンズ…」美咲はその比喩を考えた。「でも、レンズが曇っていたら?」

千代は小さく笑った。「鋭いわね。そう、レンズは時々曇るわ。だから常に磨く必要があるの」

二人は静かに食事を続けた。窓から差し込む陽光が、テーブルの上に明るい四角形を作っていた。

「おばあちゃん」美咲が再び口を開いた。「一合の米、どうするべきだと思う?」

千代は箸を置き、孫娘をじっと見た。「あなたはどう思うの?」

美咲は少し驚いた。大人たちは通常、彼女の意見を求めることはあまりなかった。特に重要な決断については。

「私は…」美咲は自分の考えを整理するように言った。「みんなで少しずつ食べるのがいいと思う。でも、一部は種もみとして取っておくべきかな」

千代は興味深そうに尋ねた。「種もみ?」

「うん」美咲は少し自信を持って続けた。「学校で持続可能性について勉強してるんだ。未来のために種を残すことの重要性とか。一時的な満足より、長期的な視点が必要って」

千代の目が優しく輝いた。「それは素晴らしい考えね。おじいちゃんにも聞かせてあげたいわ」

食事を終えると、千代は美咲に提案した。「おじいちゃんに、お茶を持っていってあげない?きっと喜ぶわ」

美咲は頷き、祖母が淹れたお茶を盆に載せて、二階の書斎へと向かった。

書斎のドアは半開きになっていた。美咲はノックをしたが、返事がない。そっと中を覗くと、誠一は大きな革張りの椅子に座り、古びた本を手に持ったまま、窓の外を見つめていた。

「おじいちゃん」美咲は静かに呼びかけた。「お茶」

誠一は我に返ったように振り返り、孫娘を見た。「ああ、美咲か。すまない、考え事をしていた」

美咲は盆を書斎の小さなテーブルに置いた。部屋は本でいっぱいだった。壁一面の本棚、床に積まれた本の山、机の上に開かれた何冊もの本。知識の海の中に、祖父は一人で浮かんでいるようだった。

「何を読んでたの?」美咲が尋ねた。

誠一は手元の本を見た。「私の古い研究ノートだ。三十年以上前のものもある」

「へえ」美咲は興味を持って近づいた。「その頃から、食べ物のことを研究してたんだね」

「そうだ」誠一は少し誇らしげに言った。「当時は、こんな事態が現実になるとは思っていなかったがね」

美咲は祖父の隣の小さな椅子に座った。「おじいちゃんの理論って、役に立ってる?今の状況で」

直接的な質問だった。誠一は孫娘をじっと見た後、ため息をついた。

「正直に言えば、分からない」彼は珍しく弱気な口調で言った。「理論と現実のギャップは、時に思っていた以上に大きい」

美咲は驚いた。いつも自信に満ちた祖父がこんな風に迷いを見せることは珍しかった。

「でも、おじいちゃんの言ってることの中で、一つだけ分かることがある」美咲は言った。

「何だ?」

「食べ物は単なる栄養じゃないってこと」美咲は真剣な表情で言った。「みんなで食べるから特別なんだよね。一人で食べるより、分け合うほうが、なんか…意味がある感じ」

誠一の目が少し輝いた。「そうだ、その通りだ。食べることは社会的行為であり、文化的行為だ。それは単なるカロリー摂取ではない」

「だから、この一合の米も」美咲は続けた。「どう使うかで、私たちがどんな人たちなのかが分かるんだよね」

誠一は孫娘を新たな目で見ているようだった。彼の著書を難しいと言っていた美咲が、その核心をこんなにも明確に捉えているとは。

「美咲」誠一は真剣に言った。「君はどうしたいと思う?この米を」

美咲は少し考え、それから言った。「私は三つのことを考えたんだ。一部は食べること、一部は種もみとして保存すること、そして一部は…」

「一部は?」誠一が促した。

「一部は、おじいちゃんの研究に使うこと」美咲は言った。「理論が現実とどうつながるか、実験してみるの」

誠一は驚きに目を見開いた。それから、ゆっくりと笑みが広がった。「興味深い提案だな」

「学校で習ったの」美咲は説明した。「持続可能な食システムについて。食べることと育てることのバランスが大切なんだって。現在の満足と未来の可能性を両立させる方法について」

誠一は感心したように頷いた。「それは、私の研究の基本的な考え方と一致している。食の倫理は時間軸を持つものだ。現在だけでなく、過去と未来とのつながりの中で考える必要がある」

美咲はスマートフォンを取り出し、画面を操作した。「これ、見て」彼女は祖父に画面を見せた。「クラスのSNSグループで話し合ってるんだ。みんな家で小さな野菜を育て始めてる」

画面には、同級生たちが窓辺や小さなプランターで育てている野菜の写真が並んでいた。レタス、小松菜、ミニトマト…。若い世代なりの危機への対応だった。

「興味深い」誠一は画面をのぞき込んだ。「若い世代が実践的な行動を取り始めているのは心強いな」

「うん」美咲は頷いた。「でも、正直言うと、不安もあるんだ。SNSで見る世界の状況は…」

彼女は言葉を切った。スマートフォンの中には、美咲たち若い世代だけが共有している恐怖と不安があった。大人たちには見えない、あるいは見ようとしない現実の一面。

誠一は孫娘の表情から、何かを読み取ったようだった。「美咲、恐れることはない。人類は何度も食糧危機を乗り越えてきた。今回も必ず—」

「でも今回は違うって言ってる人もいるよ」美咲が遮った。「気候変動のスピードが加速してるから、適応が間に合わないかもしれないって」

誠一は黙った。彼は孫娘の言葉に反論したかったが、学者として、その可能性を否定することはできなかった。

「確かに、不確実性は高い」誠一は正直に認めた。「だが、だからこそ、私たちの選択が重要になる。一合の米の使い方のような、小さな決断の積み重ねが、新しい方向性を生み出すのだ」

美咲は少し安心したように見えた。祖父が彼女の不安を否定せず、受け止めてくれたことが嬉しかったのだろう。

「それじゃあ」美咲は立ち上がった。「午後の家族会議で、私の意見も言っていい?」

「もちろんだ」誠一は力強く言った。「君の視点は、私たちに新しい洞察をもたらしてくれる」

美咲が書斎を出ようとしたとき、誠一が呼び止めた。「美咲、聞きたいことがある」

「なに?」

「君たちの世代は、食べ物についてどう考えている?」誠一は真剣な表情で尋ねた。「私の世代とは違う感覚があるだろう?」

美咲は少し考えてから答えた。「私たちは…食べ物のことを、もっと関係性として考えてるかも。自然との関係、人との関係、未来との関係。単なるモノじゃなくて」

誠一は深く頷いた。「そうか…関係性の食の倫理か。興味深いな」

「午後の会議で、また話そう」美咲は微笑み、書斎を後にした。

誠一は窓辺に立ち、お茶を手に取った。外では、春の陽光が青川市の家々を照らしていた。孫娘との会話は、彼に新たな視点を与えたようだった。三十年以上研究してきた食の哲学が、十六歳の少女の素直な言葉によって、新たな命を吹き込まれたような感覚。

彼はテーブルに戻り、ノートを開いた。「関係性としての食」と題して、新たな章を書き始めた。理論と現実の間に、わずかながら新しい橋が架かり始めていた。